人は時に、善意でやったことがとんでもない方向に走り、悪意に満ちた中傷で悪人にされてしまうことがあります。 広島市佐伯区五日市町の沖合4kmに浮かぶ津久根島(つくねじま)に伝わる湯蓋道裕(ゆぶたどうゆう)の話もたった一度の親孝行の報酬が“あまんじゃく”のらく印でした。道裕の父は、名を道空(どうくう)、母は道昌といいます。壇の浦で敗れた平知盛の子孫といわれ、五日市海老山に住んでいました。今から560年前、後花園天皇の時代といいます。 道空は信仰深い人で、特に厳島神社を信心していました。貧しい漁師でしたが、豊漁につぐ豊漁で財を成し、永享年間(1429〜1440年)には厳島神社に客人社を建て、五日市に塩田を開いたりして町づくりに努めたので、みんなから尊敬されていました。(現在でも、五日市駅の周辺には、いくつか[湯蓋踏み切り]という電車の踏み切りが存在しています。) |
1986年の津久根島 |
しかし、唯一の不安は息子道裕でした。右といえば左、海といえば山と、ことごとく父親に逆らいます。道空がいまわのきわに残した言葉が「わしの墓は海がいい。津久根島にして欲しい」ということでした。 道空はつむじ曲がりの息子の最後の反発を期待していました。しかしさんざん手こずらせた親の遺言だけに息子は孝行しようと、津久根島へ葬ったのです。 一代で財を成し、なおかつ“できた人”と慕われた道空にはもう一説ありました。平家の子孫といわれる一方で、南朝の遺臣、源道生が足利の迫害を逃れ、再興資金として宝を持ち、山口の大内家の武力を頼みに西下し、五日市に住みついたといいます。 貧しい漁師になり生計を立てていました。津久根島やその周辺に隠した金銀を、漁に出るといっては、持ち帰り、日増しに金持ちになっていきました。 息子道裕がそれに気づいたときから、親に対する猛反発が始まります。他人は親に対する愛情の問題として息子を責めます。その責め句が“あまんじゃく”です。 そして、常に人に逆らうことをいつしか“あまんじゃく”というようになりました。 あまんじゃくは古事記に「鳴女(ときめ)、天より降りて天若日子(あめわかひこ)の門に居て、天神の詔を告る」とある天探女(あまのさぐめ)から転化したものではないかといわれます。天探(あまのさぐ)とは、天の神の動勢を探るという意で、天探女は天神の動勢をキャッチし、忠実にそれを下界に伝達する女神、つまり自然現象のやまびこを神化したものといいます。同じことしか伝えない女神を“ひねくれ者”とみて、天探−あまんじゃくというようになったという説です。だからやまびこのことをあまんじゃくと呼ぶ地方が多いのです。 あまんじゃくの話は全国に数多くあります。ほとんどがてんぐやカエルで人間であることは少ないのです。五日市町誌編集専門委員の野村喜一さんは「確かに珍しい形です。浅野藩の学者だった香川南浜が“秋長夜話”の中で中国の古典話二つを引用しています。それは親が息子に池の中に墓を造ってくれるように頼むのですが、息子は素直に池の中に墓を作ってしまうのです。 津久根島の話とそっくりで、案外、南浜のいうように原典は中国かもしれません。それをだれかが津久根島に結びつけたのではないでしょうか」と推察されています。 |
あまんじゃくの父 道空が祭ってある道空社(塩屋神社 内) |
津久根島にある『あまんじゃく』の父 道空の墓 | |
墓には、天保13年次壬寅秋日再興(1842年)とあります。芸藩通志には「墓石往年海中に崩れ落ちしが、その後漁人、魚を獲ざりければ、重て修といふ」とあります。よくよく海に落ちる墓であります。 それは息子道裕への願いが届かず、あまんじゃくぶりがおさまらないとの道空の戒めなのでしょうか。 |
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「いや、不孝者どころか、親孝行息子だった」 と推測するのは道空ゆかりの塩屋明神の宮司河野貞愛さん(故人)。「道空は海老山へ墓を立てたかった。しかし、宮島のように海老山も塩屋明神の聖域だった。父はそれをおかそうとした。道裕は反対し”あまんじゃく”の汚名を着てまで津久根島へ墓を持っていったのだ」と道裕をかばっておられます。とすれば本当のあまんじゃくは息子でなく父道空だったのでしょうか。 塩屋明神の夏祭りは、あまんじゃく退治の祭りともいわれます。管弦船が津久根島辺りへ繰り出し、道空、道裕の話に花を咲かすのです。 |
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塩屋神社 | |
[参考文献]__生きている伝説(中国新聞社)
津久根島に関するサイト
塩屋神社