むかし、むかし湯蓋道空(ゆぶた どうくう)という人が五日市に住んでいました。
道空さんは宮島さんを信心していました。漁に出るなどしてもうけたお金は、五日市に塩田をつくり、町づくりにつとめました。
宮島さんのおかげで商いがもうかっているのだと、客人社(まろうどしゃ)を建てたり、黄金仏(おうごんぼとけ)も献上しました。また、子供たちに手習いなども教えていたので、みんなから尊敬されていました。
しかし、ただひとつの不安は息子 道裕(どうゆう)のことでした。
右といえば左、東といえば西と、ひとつひとつ父親に逆らっていました。
だから人々は道裕という名前を呼ばず、“あまんじゃく”というようになりました。
そのうち道空さんが重い病気になり、死の直前、道裕(どうゆう)を枕元に呼んでこう言い残しました。
「わしが死んだら、あの海に浮かんでいる津久根島(つくねじま)に墓を建ててくれんかの。」
道空さんの本心は、海老山(かいろうやま)に墓をつくってほしいが、親の反対ばかりしてきたこの子なので、その反対に「海」といえば「山」に建ててくれるだろう、と考えたのでした。
ところが、父のこの遺言を聞いた道裕は「これまでは、父に逆らってばかりですまんことをした。せめて、最後の願いだけでも素直に聞いてあげにゃあ罰が当たる。」と改心し、父のなきがらを舟に乗せて津久根島(つくねじま)に渡り、墓を建てて手厚く葬ったということです。
最後には反省して親のいいつけを守った道裕(どうゆう)さんでした。